8月6日夜の「灯ろう流し」

 1998/08/06 20:30頃

8月6日は昭和20年に広島に原子爆弾が投下された日です。画像の中央部右側に「原爆ドーム」が見えています。撮影地は圓龍寺から約1キロの地点です。

閃光と熱で焼き尽くされ、爆風で倒壊した家屋は次々に火の手が上がり、逃げ場を失った被災者の方々は水を求めて広島市内を流れる多くの川へ逃げ、そこで数多くの方が命を落とされたそうです。
私の父は当日、圓龍寺にて被災し、爆風で飛ばされ倒壊した本堂の下敷きになったそうです。

数多くの遺体が川に浮かび伝馬船が通るのが困難だったと伝えられています。その犠牲者の方々へのせめてものお供えとして、毎年このように8月6日の夜「相生橋」(爆撃の目標となったT字型の橋)を中心に「灯ろう流し」という行事が続いております。一部で「精霊流し」と混同して伝えられていますが、お盆の行事で見られるものをは全く別なものです。

広島市という街は、今では「平和都市」と一部で言われていますが、広島市(旧市内)というのは旧軍の第五師団本部があり、日清・日露戦争では現在の広島市南区の宇品港より出撃していったまぎれもない軍都であったのです。
第二次世界大戦で被災した日本の町は数しれません。多くの方が空襲で焼け出され、家族を失い、財産や住む場所を失い、焼け野原で路頭に迷ったと聞きます。
戦争によって互いの国の国民が犠牲となる。これはいつの時代もかわらない基本です。

近年、8月になると、様々な平和運動の方が行進しながら広島に集まって来られます。毎年エスカレートし、ある種のイベントと化しているような感じが致します。
この画像を撮影した後、相生橋を渡っていると、「これを見てきれいだとおもってはいけないんだ!これは平和への願いなんだ」と力説しておられたリーダーの方がいらっしゃいましたが、「灯ろう流し」は川で命果てた方々へのせめてもの「お供え」なのです。
確かに「平和」であるということは大切な事です。戦後世代の私が日本国内でそれを実感することも無理なのかもしれませんが、それはそんなに遠くない昔に存在する、れっきとした事実です。

8月5日の夕刻に、広島旧市内の浄土真宗の寺院の方が集まり、平和記念公園の供養塔(土まんじゅう)で逮夜法要をお勤めしております。ここは古墳のような姿をしていますが、多くの遺体を集めて荼毘に伏した地です。
「平和」を声高らかにし、お祭り騒ぎと化しているように、私にはどうしても思えるのですが、そういう行事やこういった「灯ろう流し」を行っている地元の市民も居ることを頭に置いておいていただければ幸いです。

現実に逮夜法要にお参りされる方も年々減っています。五十回忌を機会に「戦後のけじめをつけたい」と思われる方もいらっしゃいます。実際に見た人達が口をつぐむからといって、平和のためのお祭り騒ぎと勘違いし、歓声を上げて「平和」を叫ばれていました。祖母が健在の頃は、小さい私を連れて逮夜法要へお参りに連れていってもらっていましたが、そこで平和運動の方々から水をかけられた事もございます。一体何が「平和」なのでしょうか。

直接被害にあった人達が、他人には口にしない、口にできないこと、口にする必要もないこと、たくさん心の内に抱えて戦後の広島の復興を担ってまいりました。現在は、この画像の様に右側に原爆ドーム・相生橋、左側に広島市民球場・広島そごうと繁華街へ続き、大きな町になっています。しかし、五十数年前にここで多くの人が命を落としたことを忘れてはいません。

「ヒロシマ」「ナガサキ」とカタカナ表記する事に何の意味があるのか、私には未だにわかりませんが、反核だ平和だと言っている口が、「原爆は恐ろしいものだ」と言いながら、被爆者や被爆二.三世への偏見を口にしている事も、残念ながられっきとした事実なのです。
「思い出したくない」「軽々しく人に伝えても真実はつたわらないだろう」「口で言ったところで実際に遭っていなければそれはわからない」そういう思いで、現実にテレビなどで見る事のできる米軍の観測資料のあの雲の映像の下に実際に居た人達はあえて黙っているということもあります。
しかし、近年の世論などを見ていると、正しく伝える必要があるのかもしれないと感じるようになりました。
あれだけ口をつぐんでいた父も投下後50年を過ぎ、家族以外にその話をしていくようになりました。
反核運動、原子力利用への反対運動、平和運動、そんなことではなく、「反戦運動」がほんとは大事なのではないでしょうか。平和平和と連呼しながら徒党を組んで行進する姿が、私にはどうしても不可解に見えるのです。

爆撃された下にいるすべてのいのちあるものが、その被害を受けます。その中には為政者や指導者はいないのです。
あの雲の下に、多くの人がいました。日本にいた韓国の人々もいました。広島上空で撃墜された米軍爆撃機から脱出し捕虜として広島に抑留されていた米兵もいました。居なかった事になっていた米軍兵士は、今年初めてそれはモニュメントとして公式に認められました。

米軍が投下前に広島上空からまいた投下予告ビラ、当時私の寺に寄宿していた軍の士官さんは、昭和20年の夏には戦争が終わるであろう事、米軍が特殊爆弾を使うであろうこと、それらを予測していたこと。
それらすべてを黙らせた当時の日本の国情。

結婚して他府県へ転勤した叔母は、就職で被爆したことを隠す必要があったと言います。広島県内、広島新市内においてさえ、偏見は未だ根強く残っています。近年は、被爆者手帳を申請することで、医療費の控除というメリットがありますが、以前はそれを所有していることだけで、就職や結婚の障害となっていました。

実戦で初めて使われた兵器、そのデータは放射能影響研究所(ABCC)という駐留米軍の施設で解析され、60年代の米ソの実際に核戦争を起こしかねない非常に危険な状況の中で活用されたようです。
また、多くの放射線の影響を受けた人達がABCCで検査・治療され健康を取り戻したこと、また現在でも世界中から事故などで被爆された人達がその治療を求めてここに集まって来られます。
あれだけ核の恐ろしさが伝えられながら、未だにそのような事故に遭う人が居ること。安全管理の甘さが残っている事。

死の灰をまき散らしながら飛行する航空機用原子力エンジンの実験(実際に実験が危険だという認識はあったみたいですが実験機の翼に付けられたエンジンはおそらく米国内上空でテストされているはずです)、核実験でモルモットとにされた米兵の人達、それらの様々なデータの蓄積があってこそ、現代へ通じていることを思えば、1945年当時、未知への恐怖から被災した被害者であるはずの広島市民が、同国民から偏見を受けたのは仕方のないことかもしれませんが、それが一番の問題でもあります。

現代でこそ、唯一の核被爆国だと言えますが、米国だけでなく、ドイツも日本も、原子力爆弾を研究していたのは事実です。ナチス・ドイツがもう少し維持できていたら実戦で使ったかもしれません。日本も実戦で投下する力があったかは別として、ウラン鉱石の精製技術に問題はあったにせよ、ドイツからの援助で作ろうとしていました。

「ひろしまってさぁ 木がはえてないのでしょ?」 とまだ言う人が居ます。
平和運動・平和教育なぞこんなものかもしれません。
平和運動だと称して、8月6日の同時刻に倒れて死んだふりをする「ダイ・イン」という行為は犠牲者を冒涜しています。前衛的なパフォーマンスならば許されるかもしれませんが、これが平和運動なのでしょうか?

私自身、父や祖母や叔母が受けた事についていろいろと聞かされて来ましたが、「お父さんだいじょうぶなの?」という何でもない言葉に、被爆者差別の残存を感じます。そしてそれは私にも通じています。時には聞くに耐えない誹謗中傷も受けます。私はもう慣れましたけど。

広島県西部の本願寺派の寺院のグループである「安芸教区」(あききょうく)でも、様々な平和イベントが行われています。しかしそれらの中心となっている方は、ごく一部の方を除いて実際には被災してない寺院の方々です。それらの人達が、戦後の復興期に被災寺院に対してどのような事をしたのか、「過ぎたこと」で済まない事もあります。

多くの方が焼け出され「風呂の釜だけ残った」という状態で、いろいろな人間性に出合ったそうです。「火事場泥棒」や混乱に乗じて何をするか想像もつかない人間の姿、遠い昔の話かと思っていましたら、阪神淡路大震災の報道を見て「同じだな」と父が口に致しました。「平和資料館」には展示できない「事実」です。
敵国から受けた仕打ち、被災しなかった自国民から受けた仕打ち・・・。

原爆投下後50年を過ぎ、亡くなられた方々の五十回忌の法要も終えることができ、これでけじめにしようという声もございました。実際に法要にお参りされる寺院の方々も、その場に居た人達、またその次の世代という事とは縁の無い方が増えています。意識の違いは言ってもわからないことですが、あります。
しかし、現実にその場に居た人達が口をつぐむことで、そうでない人達の声の方が大きくなるような事になるならば、やはり、知っている者たちが次世代へ伝えていく事が、微力でも警鐘となる事ができるならば、それは続けていくべき事なのかもしれません。


一番怖いのは 私たち人間自身なのだと思います。

世界中の国々で、平和を求めない国がありますか?

日本で反核・平和を訴える事は簡単ですが、アジアの国々でも
未だ戦火の絶えない国は多くあり、人々が被害にあっています。









1998/08/07

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