浄土真宗 人に聞けない質問箱
作法や習慣に関しましては、地域や宗派によって様々でございますので、あくまでも安芸教区(広島県西部)の広島市旧市内のものとしてお考え下さい。詳しくは、地元のお寺さんへ、ご遠慮なくお問い合わせ下さいませ。
Q5 浄土真宗では「霊魂」とか「魂」をどうみるの?
電話での相談で「実家の近所の方が、家の窓に亡くなった父の影が見える」と言われるのですが、と心配されておたずねになったケースがあります。
日本では慣習として、死後の精神的存在を「霊魂」や「魂」という言い方で表現していますが、浄土真宗ではどう解釈するのでしょうか。
浄土真宗では、お浄土に往生する、仏様にならせていただくという事は、死後にそのような形で生まれ変わるという事ではありません。私たちの生命の元の状態に還る、それを「お浄土に還らせていただく」といい、浄土に往生する事で、一つの生命の完結と見ます。
では・・
一般には、我々の身体は、肉体的生命と精神的生命の2つで構成されていると考えられています。これは西洋の人間観に基づくものです。
この後者の精神的生命を「力のような存在」として死後にそれが分離し、単独で継続するという考え方があります。西洋的な「霊魂」の考え方です。
しかしながら、仏教的な観点で見れば、肉体の死後も「精神」が「有的存在」としてあるということは、なかなか難しいのです。もし精神的生命が我々の目に見えるような実体を伴うもの(可視できるものや、電気的な存在)であれば、それは存在の有限性を内在しますから、「お化けは死なない」といった不老不死の存在ではあり得ません。
故人の生前の意志、を「精神」と呼ぶならば、何もそういうお化けのような存在として言わなくても、その精神を受け継ぐ者、その人が居たことを覚えている者が居れば、「受け継ぐ」という事ができます。
浄土真宗で「浄土に往生する」という場合、往生していくのは「私」ですが、「私」という肉体でも精神でもなく、そういった枠組み(固定性、有限性)を離れた「私」が「自我」を離れて無限の存在へ開放されていく事を言います。
順って、私の魂や霊魂がお浄土へ旅立つわけではありません。
幽霊を見た、なにか自分についていると言われた、そういう話は良く聞きます。生命活動の停止後に、意志が電気的な力として残留するような事は、あり得るかもしれませんがこれはいずれ科学が解明してくれるはずです。
もしかしたら、大脳に記録されているデータを簡単にバックアップできて、死後もデータとして存在できるかもしれませんし、記憶障害の治療に役立つかもしれません。しかしそれでも「こころ」は解明できないと思います。
困っているとき、悩んでいるときに、だれかが入り込んでくるかもしれません。一番怖いのはそうやって人を惑わせる人間なのかもしれませんね。
例え化けて出ても、幽霊になってでも、亡くなった者に会いたいという願い、これはだれもが思うことかもしれません。会いたいとおもう切なる願い、どんな形でもよみがえって欲しいという願い、死後も在り続けてほしいという願い、それが幽霊という形として、一つの「不老不死」の姿(ある意味で人間の理想)を生み出したり、見えたように思う事があるのかもしれません。
この電話のケースでは「23回忌の法事を忘れていたので出たのではないか」と言われたらしいのですが、23回忌の法事というのはあまり聞きません。
また、亡くなられても「お父さん」である事には変わりはありません。人の命は一瞬の輝きにすぎないのかもしれませんが、その命が在ったという事実は永遠に消えるものではありません。

1998/11/22
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