工房しろくま こんなおやじになってしまった道



序 フリーのボート競技

まず最初に、父への感謝を記さなければなりません。
父は昭和8年生まれ、オートバイとカメラをこよなく愛した祖父の三男として生まれ、戦前・戦中・原爆・戦後と激動の時代を生き抜きました。
当時の子供の例に習い、戦災で無くなった兄(私の叔父)とゴム動力機を作っては飛ばし、戦前の寺院の木造の長い廊下で飛ばしていた事を良く語っておりました。
戦後、進駐軍のUコンを見ては、米軍岩国基地のPXに通い詰め、外国製エンジンやドープ仕上げの機体を目の当たりにしていたそうです。
この頃には既に広島・呉・福山と愛好家のグループができはじめ、当時広島にありました「マルヤ」模型店の丸山毅さんやそこに勤めていた樽本さん(後にマルヤを辞められ、渋下ガラスへ勤めた後独立され、その頃には模型に触る事が無くなったと聞きます。広島市での戦後の模型史では欠く事のできない方です)や寺本さん(明治屋のパーツ開発や沖氏の機体製作にも携わった方です。この方が愛用しておられたBMWのR90が私の中で静かなオートバイとして衝撃的でした。私も随分かわいがってもらいましたが、還暦前に急逝されました)らとフリーフライトからUコンへ、また当時日本船舶振興会が後援していたフリーのスピードボート競技へも真面目に参加し、広い人脈を作っていました。
この当時、徳島からボート競技に参加していたメンバーの中に、後にクリッパー商会となった方もいらっしゃったと聞きます。
この頃の名残で、オリジナルで鋳造したボートのスクリューブラケットや削る前のスクリューなどが残っています。

当時の事ですから、モノクロではありますが、昭和30年に現在の広島平和公園の中でUコンを飛ばし、単発機からB29などの多発スケール機に至るまでグループでいろいろしていたようです。
この頃には米軍岩国基地のホビーショップに通う様になっており、戦後復興期の日本と、エンジンを最初から取り付けて作るアメリカ人の違いに驚いていたようです。
部品がなければ米国本土から赴任してくる兵隊さんに頼んで持ってきてもらう、そんな時代でした。

父は弱電関係の仕事も副職でしておりまして(京都のラジオ屋さんでアルバイトをしておりました)、無線操縦の初期にオリジナルの無線機を使いフリーの機体へ搭載したものの実験をしていたり、当時OSの沢田氏がシングルの初期の無線機を広島まで(沢田氏も広島の方ですが)販売に来られていたようです。
初期の広島県内での無線操縦飛行機の成功には、前出の樽本氏の功績がはかりしれません。HRCの高原秀朗氏は当時中国新聞の美術に在籍しておられ、製品として無線機が定着するまではボートやUコンをされておられました。
後に、高原氏は私の家から徒歩5分の中区十日市へ「理工社」模型店を開かれ、私は毎日のように通ったのでございます。
模型エンジンを含め、本格的な模型店はそれまで広島市中区土橋にあった「マルヤ」か呉市の「マルタ」(現マルタホビー)が広島県西部では大きなお店だったと思います。戦後マルヤを中心に小さなグループができ、広島市西区己斐の長上さん(光西寺さんの前住職さん)と丸山氏と寺本氏と父で、OSのパルスジェットを店頭の歩道でエンジンテストをし(そういう時代だったのです)その爆音で広電の路面電車を止めた逸話が残っています。
広島でUコンのスピード機をメインに活動されていた渋下孝和さん(渋下ガラス)らもこの時期以前から活動され、膨大なエンジンコレクションをお持ちで、藤室氏とも親好があった様ですが、父の半年後に亡くなられました。(2001/10/08三回忌の法事を勤めさせて頂きました)
この後に吉島空港(現在の広島西飛行場が開港する前の簡易な飛行場)で飛ばしている頃に、10年位前までF3Cの選手権にコンスタントに出場されていた中木氏らが入門されています。
現在もスケール機で活動されている堂端氏がズリンのスケール機を原爆ドーム前で撮影された写真がラジコン技術に掲載されたのは私がまだ小学校前の事です。


リード式無線機からプロポーショナル方式へ

昭和30年代後半(私が生まれた頃ですが)には、無線操縦の無線機はリード式の物が主流となり、OSの10チャンネルという青い箱にやたらとレバーが付いている物が当たり前でした。この頃には外国製のオービットの無線機がプロポーショナル方式の無線機を発売し、日本国内では加藤氏(MKの加藤さん)が代理店となられ、大阪へも通った様です。
日本の無線操縦ヘリでパイオニア的な存在であった藤山氏は、当時MKへ勤めておられました。その後広島に戻られ「藤山ラジコン研究所」として金属加工に卓越した技術を発揮されておられます。
この頃には、マブチの初期の空中モーターが発売され、食塩水を注入しゴム動力機くらいの大きさの機体をフリーで飛ばす物が出始め、父も普及実演にあちこちの学校を回った記録の8ミリがあります。
この頃は、広島市内の吉島にあった実機の飛行場(現在の広島西飛行場はその後)や、知人の紹介で防府の航空自衛隊基地の非常用滑走路で飛ばしておりました。
古いラジコン技術に高原氏製作のトーラスの双発版「ツイントーラス」の記事がありますが、あのテストも防府でした。
他に八本松の陸上自衛隊の演習地で飛ばしたり、そういう事が可能だった時代です。
私の記憶では八本松へ何度か連れて行ってもらい、タイガーロケッティのFF機を飛ばしてもらっていました。
この頃には無線操縦は呉市広町の埋め立て地がメインの飛行場となり、寺院の業務が忙しかったと思うのですが、日曜の夕方には必ず広へ飛ばしに行っていた様です。車は当時日野のコンテッサ1300で、ルーフキャリアに飛行機を積むのが当たり前でした。
これにせっせと私はついて行っておりました。呉の「マルタホビー」の先代とも知り合いであったようで、思い出話の中によく出てきておりました。

ひまし油のにおいのする広場というのは、この頃の思い出です。

実は、当時の飛行機は現在の物と比べ、非常に音も大きく、60クラスは小さな私には雷鳴にも聞こえておりました。
09クラスだとマフラー無しはごく普通で、60クラスでマフラーを付け初めていた頃でした。
エンヤだったかOSだったか記憶は定かではないのですが、09クラスに青いアルマイトのマフラー、ポニーの黄色いナイロンペラ、主翼にはチェッカー模様、そういう時代でした。
この頃に、日の出のエンコンがボタン打ち、ラダーがスティックという送信機で、父に高翼機を触らせてもらったのが、エンジン飛行機の始まりです。
「右に打て」と言われ必死に右一杯に小さな手で操作し、急旋回させてしまったらしいです。 これが幼稚園入園の頃です。
まだ市販の引き込み脚ユニットは無く、傘のリンクをヒントにMKの飛燕で樽本氏と独自に引き込み脚を開発した様です。
父はずっとMKの飛燕を好んで飛ばしていました。
家の掃除中に誤って生地完成状態の飛燕の主翼を壊した母を怒り、怒られた母が意地になって直し、絹貼りまでやったそうです。

そういう環境でしたから、生まれたばかりの私が寝ている隣の部屋でサンディングのバルサの粉は飛ぶわ、塗装すればシンナーの臭いが充満するわ、そういう時代でした。模型人を父に持つ家庭では珍しい事では無かったようです。

この頃はまだ国道2号線も広島の庚午を抜けると国鉄の線路の横が道路をはさんですぐ海であったり、その干拓地で飛ばす事もあったようです。
また、現在では信じられませんが、今の郵便貯金会館や広島ホームテレビのある白島町の一部がまだ川原で、幼稚園の帰りにフライトを見に行った記憶があります。


入門

この頃に父から「小学校に入ったらラジコンの船を作ってやる」と言われ、クリッパーのバレリーナに日の出のシングルセットであったろうと思うのですが、随分心待ちにしておりました。結局これは実現せず(今考えれば、小学1年生の手で調整できるような物ではありませんでした)、小学2年生の冬に石政のラットバギーをせっせと小遣いを貯めて買ったのが始まりです。
この当時、無線機は日の出か東京電子(今のロジテック)がメインで、自作のデジタルプロポーショナル無線機も作っていたようです。MKの独特の半透明な(今のスケルトンカラーですが)プッシュプルサーボが飛行機では定番でした。
送信機はジュラルミンで四角い箱というのが当たり前でしたから、マイクロアビオニクスのG−45のプラスチックの送信機は画期的でした。
まだ4ワイヤーのサーボが当たり前だったのですが、このG−45がラットバギーの最初の無線機となりました。
(何故か双葉は少数派だったような気がします。当時最も安価な2chの無線機が双葉のFP−2A?か何か茶色の送信機だったのですが、これは使った事がありませんでした。2万4千円位の価格でしたが、当時の物価を考えれば随分高価だったものです)

石政のラットバギー、今考えれば非常にストロークの小さなサスで、デフギヤも無し、アルミダイキャストのミッションケースにホイール、スピンしない方がおかしな構造でしたが、同時期に発売された京商のサイドワインダーでギヤ丸出しのデューンバギーより夢がありました。
今なら後輪駆動のバギーでカーブの手前で減速するのは当たり前でしたが、父は何故かこれを許さず、エンコンを絞るとエンジンがかぶると言ってはこちらに向かってくる車に左右を間違えて操舵するバカ息子をどやしておりました。涙の特訓でございました。
何せ、ブレーキそのものが後年オプションパーツとして発売された位ですから、そういう時代でした。
しかし、父は息子のために缶詰の空き缶でオリジナルの燃料タンクを作ってくれたり、ダストカバーを作ってくれました。私はエポキシを練るのが仕事。当時は早くても6時間。1工程済んだら片づけて後は翌日というペースが当たり前でした。輪ゴムを使ったサーボセーバーもありました。エンジンはエンヤの19の5型。
結局ラットバギーは後年無線機を三和に換え、エンジンをOSの21FSR−Cに載せ替え、中学校の文化祭で校庭を走り回りました。
京商のサーキットバギーが出る頃までは現役でした。 今見ても雰囲気は最高なバギーです。

車はこの後に中学高校大学社会人と、21クラスの後輪駆動からチェーンドライブの4輪駆動へと自転車の荷台にくくりつけては出没し、実車のダートトライアルコースにコースが設定されたり、広島西部でのシリーズ戦があったりなどして、京商のバーンズから初代のインファーノまで熱中していました。
無いパーツは自分で作る、これはエンジンバギーの経験で覚えた事です。(というくらい地方では部品が手に入らなかった)

水物の経緯

ボートの経緯は、ラットバギーから降ろした無線機を使い、石政のブルーソニック600というモーター付きのヨットを走らせておりました。
小学校4年位だったと思いますが、当時はレース用のヨットでもなければセールサーボもなく、田宮の強力ギヤボックスを使い変なウインチを作ってセールサーボを作った記録が小学校の作文で残っています。
この頃に、「子供の科学」や「模型とラジオ」と出合っています。
船はその後中学入学の頃に、日の出のプラコン(1/35リモコン戦車用シングルユニット)を使ったボートを入手し、プラモデルの船外艇などで楽しんだり、この頃から瀬戸内海で見る排水型の船(特にタグボート)の写真を撮りまくる様になり、排水型の美しい航跡にあこがれて、地球堂のミニボートシリーズ「ニアリード」を電動で随分長い間楽しみました。(現存)
中学の頃には09エンジンのハイドロ艇にもチャレンジしましたが、あえなく敗退。半没ペラがエンヤの09に日の丸の「丸特」で回せるわけもありません。
父はこの方面ではかなり知識を持っていたはずなのですが、息子の苦労を横で見ておりました。
中学の頃からラジコンを趣味とする友人とも出会い、その一人、福原英弘氏と一緒にあれこれしておりました。
排水型はプラモデルの「大和」(しかし日模のあれではなく同友社の不細工な1/250)へと続きます。この大和にマイクロのG−45を使ったのがこの無線機の最後でした。
もっとも、マイクロアビオニクスそのものはもう無くなり、技術の方は日本遠隔操縦(JR)や三和電子へ別れて行かれたと聞きます。

エンヤの09は後に、地球堂のM401ジュピターへ改装搭載され、自作2段消音マフラー(丁度中島得一郎氏が製作記事をかかれてました)に完全防水型メカ室とやたらと凝った構造で、甲板はオイルスティンまで使い仕上げておりました。若い力はすばらしいものでございます。


飛行機への道

飛行機はかなり遅いほうでして、小学校4年の頃に一条氏の1.8mクラスのグライダーを作ったのが無線操縦の飛行機では最初です。
三瓶山へ飛ばしに行き、飛んだのか下に落ちただけなのかで終わっています。
その後、OKのBABY049を作り、エンジンの調整不足で飛んだような飛ばなかった様な次第。
同じ頃に、私の唯一のUコン機であるOKのFAST(何故かこれが一番格好良かった)を作り、父にもらったOSのPET099のスロットルを外し、始動だけで一日つぶしていました。
なにより、飛行速度の速いものが苦手(今もそうですが)なもので、出来るだけゆっくり飛ぶ物にしか興味が出ず、三和のライダーカイト(フレシキブルウイング機)に失敗し、小学校高学年でヘリに触り始める頃でも、飛行機は全然だめでした。
中学に入ってからはボートや当時でたばかりの田宮のポルシェにのめりこみ、6vバッテリーだ540モーターだベアリングだとどんどん進歩し、リレー制御もしましたしダブルデッキシャーシを真似てオリジナルのシャーシを作るのは当然でした。ここにアルミ細工の原点があります。
中学の友人に大竹市在住の池亀氏がおり、彼が岩国模型さんで操縦を教わっている事を知り、OKのQB10HをOSの10FSRで作りました。
実はこの頃にはヘリもそこそこホバリングが出来るようになっていたのですが、飛行機はからきしだめ。
やっとの思いでエンジンを始動し、手から放れて上昇を始めた途端、頭の中は真っ白。左右の舵を打つだけで戻す事もできずアップも引かず、落ちました。

エンジン機の単独飛行に成功したのは、京商の049のスポルタビアでした。高校入学を目の前にして(中高一貫教育だったので・・)初めて自分の手投げでエンジン機を飛ばし、自分の操縦で旋回させ、おまけに初飛行でループも行い、随分離れた場所に降ろしました。
本当に単独飛行でして、場所は母親の実家のあるとある島の干拓地、見物は車に乗せてきてもらった叔父と通りがかり青年だけ。
草深い場所に降りた(落ちた)機体を見ず知らずの人が温かい顔で回収してくれました。
夜、「できたよ」と父に電話し「おめでとう」と言ってくれたのが始まりです。

この後、高校入学して再度QB10Hを作り、父から地獄の手ほどきが始まってゆきます。
QB10Hはエルロン機でしたが、離陸、着陸誘導、水平飛行、バンク、宙返り、ロール、スパイラルダイブと徹底的に教育を受けました。
通常なら、クラブの上級者に教わるだけなのですが、父でありますから帰宅後もレクチャーが始まり、小さなミスも厳しく指摘されていました。
「わしの子として恥ずかしく無いように」という言葉は、後年余所のクラブでの飛行会でそのおかげを身にしみました。

この後、QB25LやQBシリーズのスケール機を作っては壊し、そろそろスタント機を作ってみろと言われMKのブルーエンゼル20でスタント機の従順さと水平飛行の奥深さを叩き込まれました。2サイクルの機体はこのブルーエンゼルが最後で、この後は斉藤のFA30(初代)から30クラスの4サイクルスケール機がメインとなって今に続きます。

電動機は、京商の540クラス機(エチュード)でかろうじて水平飛行をしたのが始まりです。電動バギーでのノウハウが「飛びそう」と思わせ始めた頃です。
一番衝撃的だったのは、ユニオンの初代のセスナでした。最初見た時は無線操縦の機体だとは信じられず、270mah4セルのわずかな電力で非常に軽快に飛びました。あれだけ難しかった電動飛行機(マブチのすばらしい試作機は別として)(当然双葉のU−Iもほしかったのですが、高価でした)があっさり飛んでしまいました。
これをきっかけに、4セルから6セルへと続くユニオンのムスタングシリーズを始めとして、ミサイルボーイの頃までは作っていないユニオンの機体は無い程でございました。
京商もAP29モーターで500mah5セルを使うプチシリーズが好結果で、プチロビンはかなり楽しみました。当時はこのクラスでアンプを使う事は無かった(KOのオートカットユニットのみ)のですが、サーボを1つ追加しマイクロスイッチでオンオフさせる余裕は既にありました。
この基礎が、現在へとしっかり続いています。
とはいえ、ニッカドバッテリーを使い、ギヤダウンしたモーターで大径ペラを回す発想は、三洋の100mahセルを2つ使い、マブチのRE−26クラスのモーターで飛ぶマテル社のフリーフライトの電動機が最初でしょう。
この機体フリー機ではありますが、交換可能なカムを備え、飛行中にラダーを操作するものでした。


ヘリコプターの経緯

無線操縦のヘリコプターを初めて見たのは、高原氏の理工社へ藤山氏自作のヘリが天井に釣ってあるのが最初でした。後にシュルーターだったかカルトだったかのヒュイコブラをマフラーの排気でファンを駆動し冷却水ポンプを使う水冷方式に改造されたのを見たのが、ラットバギーを買った頃の小学校2年の頃です。
この頃からラジコン技術に無線操縦ヘリ開発の論文が継続掲載されており、実機メーカーや海外の研究所でテスト用に開発された模型ヘリの写真を食い入るように見て、その中の電動ヘリ(電源は外部から)の写真にすさまじい衝撃を受け、モーターにプロペラを付けて外部からの電源供給・・・という事を始めました。
70年代半ばにはマブチの空中モーター(A−1)も発売になり、これを使ったフリーフライトのヘリが「模型とラジオ」に発表されたりするようになっています。
これより以前にもラジオコントロールのヘリコプターは存在していますが、ローターヘッドに真上に向け取り付けたエンジンの反動トルクで、遠心力によるピッチコントロールを使ったメインローターを回す方式の機体に、エンジン・前後のバラスト移動、左右をコントロールする物が、初期(10号くらいまでだったと思いますが)ベル47Gのスケール機として発表されています。
この方式のフリーフライトヘリコプターは、平和公園で飛ばせた時代に父が自作で作っていたそうですがピッチ制御のバラストの調整が難しく、安定した飛行が難しかったと話しておりました。(中学校の頃に東京で科学教材社に寄りましたら、この方式の非常に良くできたシコルスキー?のスケール機がありました)
私が中学に入った1975年頃には、Gマーク(河口湖精密)からCOXのPeeWee02を使うフリーのヒューズ500が発売されました。後にベル47Gが追加され、購入してはみたものの、エンジンの調子が上がらず(COXの赤缶ではなく、日の丸のUP30を使っていたのが原因)ゴム動力ヘリと大差ありませんでした。
このシリーズは後に049クラスのガゼルが追加され、後年Gマークの03に変更されています。

現在の機構の無線操縦ヘリコプターはシュルーターのヒュイコブラ60が最初で、デュプロのワーリーバード505(2重反転方式)と一緒に日本に入ってきています。
このシュルーターのヒュイコブラのライセンス権を取得し、45クラスとして発売されたのがカルトの初代ヒュイコブラでした。
これに続いてカバンのジェットレンジャー(60)が可変ピッチ方式で登場し、広島では永松氏がカバン使いとして有名でした。私が産まれて初めて見た模型ヘリのロールは永松氏のヒロボーファルコンでした。
この頃から高原氏がグラウプナーのベル212に着手されています。当時は現在の様なベル・ヒラー混合方式ではなく、カバン・相模・藤巻・初期のヒロボーがベルヘッド、カルト・グラウプナー(後に三共製作所・神戸機工も)石プラがヒラーヘッドでした。カバンだけがローターが左回転で、当時は現在の様にテールピッチコントロールが効かず、少しでも風があると一杯に打ってかろうじて機首を振るといった状態でした。まだジャイロはありません。

父が最初に製作したのは相模のヒューズ250でした。エンジンはエンヤの19BBでエンコンサーボとラダーサーボを機械的にミキシングしていました。
この頃は19クラスで浮くかどうかも怪しく、後にOSの25RC(まだシニューレではありません)に載せ替えていました。
今考えても相模の機体は非常に良く設計されており、当時主流であったシーソーヘッドも現在の様にセンターにダンパーを付けた物ではなく、シーソーがある程度傾くとストッパー的な動きとしてダンパーが動き始めるというものでしたが、相模は既に樹脂プレートを使ったフラッピングヘッドでした。
当時寺本氏はカバンのジェットレンジャーを飛ばされており、父と一緒に練習に行っておりました。
私の小学校の同級生であった沢さん(沢ビニール)にお願いし、ヘリ用のビニールフロートを特注し、水上機としても飛ばしておりました。(まだ市販のフロートは少なかった)
その後、ヒューズ250は可変ピッチ方式に改造されたりしていましたが、45クラスに移ってカルトのヒューズ500を父は入手しました。この頃からカルトも可変ピッチとなっていますが、ダンパーはやはりセンターがフリーなものです。当時は私の家の屋上で練習しておりましたので、飛行性能もその程度でした。
この後カルトのフェアチャイルドを飛ばしていましたが、まだエンジンはエンヤの45BBが主流で、パワー不足からウェブラの40を積む事が多かったです。
三共製作所のレイベン(固定ピッチ45ヘリ)が出たのはこの後ですが、父はこの機体で初めて上空飛行に成功しています。三舵を目一杯打たないと言う事を聞かないと言っておりました。
この頃にはヒロボーからガゼルが60クラスで発売されていますが、複雑すぎる構造のため初期の評価はあまり高くなかった様に思います。
無線操縦のヘリコプター用として、現在のレボリューションミキシングに相当する機能が付いた無線機が発売されたのもこの頃です。

この後、カルトのバロン(初代の固定ピッチ板バネフラッピング)が発売されました。アルミフレーム2枚の構造、パイプだけのテールブーム、簡素なヘッド、ぺらぺら(当時のFRPボディから比べると)のキャノピー、ピアノ線を半田付けして作るスキッド、当時は運動性が良すぎて飛ばしにくいとさえ言われていました。

この頃(1975年頃)に私は三共のレイベン(キャノピーは父がFRPで作ったバロンもどき)を父から譲り受け、父にテールブームをもってもらい、エンコンとエルロンの猛特訓を屋上で受けていました。(今考えると危ない練習方法でしたが、当時は当たり前でした)
この機体に、新メーカーであるJRの7Cー4SAセットの無線機を使いヘリの入門となりました。
当時は三和とJRのヘリ用無線機はやたらとミキシングのボリュームが付いており(三和は7つくらいあったような)レボリューションで2系統、アクセレーションへ動作量と動作時間の2系統の調整が必要でした。ホバリングメモリー(現在のホバリングオフセットに近い機能)が普及し、ジャイロが当たり前になるまではこれが普通でした。
ジャイロは当初カバンの物しか市販されていなかったのですが、父が初代ヒロボーファルコン(圧倒的な低価格で画期的でした)でテストしたところ、嘘のように(当時としては)機首が安定したことを覚えています。国産でもジャイロセンサーや三共の物が発売され、私もレイベンへ三共のジャイロを使っていました。

エンジンはまだ初代バロンの頃でもエンヤの45BBだったのですが、この頃からやっとヘリ用のエンジンが出始め、OSの45FSR−Hなどが出てまいりました。
60ならOSかエンヤ(まだシニューレではありません)、外国製でウェブラかスーパータイガーが定番でした。キャブだけウェブラという仕様も多かった気がします。

今考えても、レイベンは非常に舵が効かない機体でした。風がなければそこそこの安定はあるのですが、一度姿勢が崩れてしまえば、目一杯舵を打っても高度がなければ確実に転倒していました。当時の60クラス競技機の運動性能が今の280クラス電動ヘリ程度だったように思います。
さんざん薪を作ったレイベンでしたが、度重なる分解修理でベアリングケースも痛み、エンジンをフレーム下に倒立搭載という構造も扱いにくく、初めてカルトのバロンを購入致しました。レイベンは父からのお下がりでしたので、初めての自分の機体です。
飛ばした感想は劇的でした。横風ホバリングでも止まる!舵がちゃんと入る。舵が効くので操縦ミスからでも立ち直る事ができました。しかもあれだけレイベンではヘッドのダンパーゴムに悩んでいたのですが(ヘッド自体はカルトの固定ピッチSPヘッドに交換していました)、板バネは何も心配が要りません。
機体が面白いように止まり始めたのはこの頃です。太田川河川敷へせっせと通い(まだあの新幹線事故はおきていません)、猛特訓の末に自分の回りを右回りに一周させる事ができたのもバロンが最初でした。今の機体のレベルからは信じられませんが、当時の機体は風下から風上へのターンでラダーを一杯に打っても風に負けて風上へ回らなかったのです。同一条件でエコピッコロをとばしてもピッコロの方が遙かに良く飛びます。
この頃の練習の蓄積が今につながっています。

父はこの頃にはヒロボーの機体を飛ばす事が増え、ファルコンからイロコイス60(リコイルスターター内臓)へ移り、後付のウォッシュアウトリンクでヒロボーが(カバンもでしたが)ベルヒラー混合方式に変わっていった時期でもあります。
この時期にはOSから60FSR−Hも発売となり日の丸のUP30にミサイルミストを混ぜるような事も要らず、丸徳(15%ニトロ)で十分飛ぶようになっています。
この後ヒロボーはヘッドを一新しジェットレンジャー60で非常に好評を博しました。私もこの40版がほしかったのですが、中学生に買えるわけもなく、バロンを可変ピッチにして練習しておりました。(カルトはまだヒラーヘッド)マフラーだけヒロボーのダイキャストマフラーでした。

バロンにOSの45FSR−Hを載せ、可変ピッチ仕様に変更し、ジェットレンジャーのボディでエンコンの差動という事が言われ始めた時代となりました。
このジェットレンジャーは、父に手伝ってもらいオーディオ用のアルミのボリュームつまみを加工しセンターハブとして、TSKのベアリング入りベルクランクを付けミキシングリンクとしヒラーティータリングヘッド方式に改造しておりました。ちょうどベルヒラーへの移行期でもあります。

まだ対面ホバリングはできていなかったのですが、怪しげな上空旋回もできるようになり大学受験(とはいっても私は推薦でしたので高校3年の夏から冬までの間だけ)のためほんのわずかの間ヘリコプターから離れておりました。
この頃に(離れてたはずですが?)ヒロボーのミニスター025(25クラス固定ピッチヘリ)を三和のスタック6MXに三和のジャイロを使い飛ばしておりました。
この頃から、実は飛行機の方がだいぶ飛ばせるようになり、そちらの猛特訓へ鬼教官と通っていたのでございます。

大学へ進学し、京都に移ってしまったため帰省時にしか飛ばせない状況でしたが、この頃に高原氏の理工社さんがお店を閉じられています。丁度初期の電動カーブームの頃で、飛行機専門では難しくなってきた時代です。
京都では東山七条のあたりに住んでいたのですが、東大路の三条付近にあったユニバーサル模型社さんでプラモデルなどを購入しているうちに、三条通りの「エンジンプラザユニ」さんへ通うようになりました。同じように洛西モデルへも(春日通にあった頃)通っていたのですが、エンジンプラザさんが理工社さんと同じようにサワイ商店から仕入れておられ、特にOKのキットに関しては完璧に揃っておりました。京都の頃には随分お世話になったものです。
この頃にモデルショー大阪へ大阪に居た友人の福原氏と行き、ヒロボーブースでミニスター025のヒューズ300仕様を食い入るように見つめ、地球堂ブースで初めてカッティングシートに触ってきました。後日ヒューズ300へのコンバージョンキットを入手し、京商のバギー用マフラーを付けてそこその上空飛行をこなしていました。
この時、ヒロボーの方から「これの可変ピッチ版も開発してますよ」といわれたものが、シャトルとなっていたのでしょう。

理工社さんがなくなり、マルヤさんへは電動バギーで随分通っていたのですが、空物がメインのお店ではなく、広島ではなかなかパーツ類が入手できなくなっていました。ごく近所にプラネット模型店もあるのですが、あまり行く事がありませんでした。
マルヤさんとは父の時代からのつき合いもあり、門徒さんという事もあって、結局最後まで通い詰めたのですが、このマルヤへ店員として勤められていた図師直樹氏に出合い、しばらく停滞していたヘリの活動が、60バロンSに7cキャブの60FSR−H、双葉の8HPに双葉のジャイロという初めてずくしの組み合わせで再開しました。
図師氏が当時選手権を目標に練習されており、ほとんど独学だった私には新しい課題が山積みでした。ちょうどマルヤのお客さんのヘリの入門練習を私と図師さんで指導していた頃でして、当時発売になったばかりのヒロボーシャトル(28FSR−H仕様)を私も購入し、ホバリングサークル、ホバリングM、対面ホバリング、オートローテーションを一生懸命練習しておりました。
この時期は広島では商工センターでの飛行が安全確保をした上で可能な場所もあり、図師氏を通じて知り合った中木氏にも教えていただいていました。
この図師氏を通じて、黒川義英氏に出合い、ヘリを教えてもらうようになってこてんぱんに悪口言われつつ・・だいぶ飛ぶようになってきました。

ヘリとは離れますが、この頃に電動バギーなどで広島西部のシリーズ戦へコンスタントに出るようになり、競技の手伝いなどもしていました。
この中で知り合ったグループで21クラスのバギーのシリーズ戦をする事となり、主催の中井さん(フローリストエデンという花屋さん)のお世話になり商工センターへ日曜の忙しい中をぬって(法務で午前中は出られなかったのですが、午前中の予選をパスさせていただき)黒川氏と情報交換をしながら京商のバーンズからインファーノの初期まで、商工センターからテクニックステージ高田(TESTA)(ダートトライアルコース)特設のバギーのコースへ通っておりました。
このバギーの活動を通してアルミ加工も多少できるようになり、まだ黒川氏がご自身でも選手権に出ておられた頃ですが、シャーク1でのサブマフラー製作あたりからアルミの蝋付けの技術を教えてもらい見よう見まねで変なマフラーが作れるようになってきました。

ヘリはマルヤが閉店する頃まで60バロンとシャトルをメインに飛ばしていましたが、一時期20バロンMXも飛ばしておりました。この後にシャトルも30クラスサイズとなり(XXの頃)このシャトルの改造機(ピッチ動作量の増加、スタビライザーの肉抜き)で黒川氏や池田氏(まだ広島にいらっしゃいました)が背面にチャレンジされていました。この頃からシャトルでも上空演技が普通にできるようになり、黒川氏が三和の中島さんに目の前でシャトルを飛ばさせて「アップひいて・・・」と言われただけでシャトルが何も問題なくループを致しました。目から鱗・・に近いインパクトでした。
帰りにXXを黒川氏に頼んでおき、送信機も双葉のPCM1024Hに変わっていましたが、調整をお願いし、アイドルアップを使った上空飛行の基本から教えて頂きました。
土橋さんが黒川氏のお店によく来るようになり、世界選手権へも行かれ、橋本さんと入れ替わった頃から黒川氏もヒロボーへ行かれる事が増え、なかなか会う事ができず、模型店に行くより金属材料屋さんへ行く機会の方が多くなってまいりました。

電動ヘリは何と言っても「SEA&SKY」の表紙を飾った市村氏の機体が雷鳴の様に衝撃的でした。最初信じられませんでした。
この機体が、石政から「スカイラーク」として発売されたのですが、当時の私には高価で入手できず、丁度電動カー用でマブチのスーパーセルユニット(1200mahと600mahの2種類の8セルバッテリーとRS550モーターとオートカットユニットのセット)を持っていた事もあり、電動カー用のギヤを組み合わせスカイラークもどき?の自作に高校2年の頃からはげんでおりました。
1号機はフレーム形式にウレタンベルト駆動のテール、RS540を2つという形式で、浮く事だけは確認できました。現在の様な高性能なアンプは無く、唯一KOから8セル対応の巨大なアンプ(RX−7?)があり、これを使ってみたり、スカイラークの部品でワイパー方式にしたりしていました。
2号機は諏訪部氏の試作機に刺激され、テールはピアノ線駆動で箱形のフレーム、発泡スチロールでヒューズ300のようなキャビンが付いていました。
この機体で初めてバッテリーを抱えて浮きました。(20センチくらい)広間の障子の骨を折るくらいの事はできていました。
3号機はアルミ板2枚のフレーム形式で、藤巻のヒューズ25をかなり意識したデザインでした。スパーギヤ2段減速はすべて同じです。
この機体は膝くらいの高度まで浮上する事ができました。今のバッテリーと充電器なら完璧に浮くはずですが、当時の器機ではこれくらいです。
3号機は後に固定ピッチバロンのスタビレス化で紹介された方法で、ビニールテープをブレード先端にたくさん巻いたウェイトを使い、ダイレクト操舵でスタビレス化しスカイラーク用の電源コードで外部電源供給としてスタビレスの実験機として飛ばしていました。
今のようにフライスや切断機もなく、父の旋盤(当時はニューアルト)とボール盤だけで加工していました。

280クラスの電動ヘリはアイソニックのマスターEH650から始まりました。EH550をエンジンプラザさんで見て、時計の様な精密さにちょっと手が出にくかったのですが、ヘッドも多少改良され、ジャイロが使えるという事で始まりました。この頃からパソコン通信(NECのPC−VAN)で情報交換をする事が増え、専門誌で扱ってもらえない情報の交換ができるようになり、同じ分野でチャレンジしている方々の生の声が聞こえるようになりました。
アイソニックの機体は7セルだったのですが、市村氏がトブゾーを発表されこれが6セルでも浮くと言う事を知り、YOU−Gのトブゾーを購入しました。
当初は良く飛んでいたのですが、ヘッドの精度やピッチ保持剛性が不足し、対策している間にモーターのバランスが崩れ、ツインモーター機の難しさを知りました。
この当時のこのクラスの機体で、一番簡素な構造であまり飛びそうになかったのが京商のコンバートEXでした。
しかし、実際のフライトではコンバートが一番安定しており、精密さを追求するだけではなく、大きめの構造で精度を上げた方が効率が良くなる事もしりました。
コンバートは結局2機製作し、アイソニックのジャイロからKOの小型ジャイロ(ウィスパーに初期に付属していたもの)へと変わり、双葉のG−155からGWSの初期の圧電振動ジャイロへと進化してきました。

このあたりから電動ヘリや電動飛行機が良く飛ぶのが当たり前になってきました。乾電池で飛ぶわけもないフリーの電動ヘリを稚拙に作っては失敗していた私に「あんたが大人になる頃には飛ぶようになるよ」と言った父の言葉が現実になっています。

無線操縦の飛行機を飛ばす事が夢物語だった時代、引き込み脚が夢だった時代、ヘリコプターだけは無線操縦で飛ばないと言っていた時代、マブチの試作機からアマチュアの試作、フタバのU−Iからユニオンの電動飛行機、市村氏の電動ヘリからスカイラークそしてバロンウィスパー。
夢は夢ではなく、追いかける目標でした。
それを夢見ていた数多くのアマチュア、中には本業となり、また去る人もあり、先に亡くなっていかれた人もあり。
個人の趣味ではありまがら、これほど大きな人のつながりを生む世界もまた無いのかもしれません。

ずっとマイペース。



2001/10/12

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