工房しろくま写真館
古いデータを整理してたらこんなのが出てきました。恥ずかしいのやら思い出深いのやら、写真残ってない機体は70年前半から山ほどあるのですが少しご紹介。
船や自動車はおそろしいほどありますので・・・ 割愛
飛行機たち
京商スポルタビア049
父の指導方針?で完成機なんてとんでもないという時期もあったのですが(父もOKのABS胴体機はロビン作ってましたけど)このスポルタビアの一つ前のセスナを見て、これなら簡単でいいじゃないかと父の許可?が出た頃の機体です。リードバルブの049でステッカーだけで仕上げる機体でしたが、非常に良く飛び私が始めてサーマルを体感した機体です。始めて単独離着陸(手投げ草むら不時着)できた機体です。
同時期に電動版もありましたが、あの当時も当時なりに良く飛んでました。モーターグライダーとして好きな形です。
昭和52年頃
ズリン 斉藤30
機体のメーカー名忘れましたが、父がIMのズリン(OSのFS60仕様)を作るのに合わせて斉藤の初期型30で作った機体です。エンジンはQBのパイパーカブで使っていたものですが4サイクルエンジンを扱うのをせっせと練習したエンジンです。(現存してます)機体は京商のシルキーコートで貼ってスプレーの塩ビで仕上げていました。
このころのアクロ機の演技を父にいろいろ習った(しごかれた)機体です。IMのズリンは失速癖悪かったですが、この機体は飛ばしやすい機体でした。
でもシルキーコートたるまなかったですけど重かったです。
1981年
加藤 ブルーエンゼル20
そこそこ飛ばせるようになって、スタント機一回作ってみろ加藤の機体なら3日でできる!と父に言われ始めてスタント機と名の付く物を作ったのがこれです。
当時からOSの20RCが指定の機体でしたので、25FSRを積むにはちょっと加工が必要でしたが、非常に癖が無く正確に飛ぶ機体でした。
最近再販された機体を電動化された例でも凄まじい上昇力がありますが、この頃のスタント機は今ほどオーバーパワーではなく、正確に引っ張ってスムーズに上昇させパワー絞って降下させてました。今の普通の電動機の方がはるかにパワフルでしょう。
この機体は京商シルキーコートにウレタン塗色仕上げでかなり重い機体でしたが、メカ降ろすまでずっと綺麗でした。当時はとある島の塩田跡地で飛ばしていたので、このようなバギーコースより荒れた路面でわずかに使える平らな場所で離着陸させてました。
父はMKの事を加藤の機体とか昌弘さんの機体と呼んでました。 ヒロボーのステッカーはってありますが・・ごめんなさい。
リード全盛の頃の規定スタントをしていた父から仕込まれた機体です。
1982年頃
OK 02パラソル
当時あったOKの02クラスキットです。三和のミニプロポで250mahのニッカドを使ってました。PeeWee02にはかなり厳しい重量で浮き上がらなかったです。
TeeDee02なんて雲の上の存在でしたし、まだCOXの赤缶を使うことを知らず、丸徳かUP30で回してました。
小学生の頃 1976年頃でしょうか。
OK BABY049
これもOKのキットです。数年前までOKのカタログに出てました。(まだあるかな)ブラックウィドウ049を使ってますが、受信機は単3電池でした。中学生の頃に島根の三瓶山での写真と思いますが、気圧低くてエンジン元気無かったです。
京商のエクセルコートが出るまではこのようなビニール風のアイロンをちょっと当てすぎるとすぐに溶けて穴があき、置いておくとすぐにねじれたりたるんだりするフィルムが多かったです。
1976年頃だと思います。
これのシリーズのビーバー049はキット今も持ってたりしますけど・・・
自作02プッシャー
ラジコン技術に掲載された小美濃さんのガイアルシリーズの機体を見て作った機体です。中学から高校の間に、中間だ期末だと試験があるたびに図面が引かれ、試験最終日に全速力で帰宅し、近所にあった理工社(HRCの高原さんのお店)へ1000円持ってバルサと檜棒を買いに行っては作っていた機体の一つです。
今見ても良い格好してますがデザイン懲りすぎ。小美濃さんのガイアルシリーズは毎回衝撃的でした。
三和のSM321という30グラムのミニサーボ(これで当時は非常に軽かったんです)(双葉に27グラムがあったりOSにPX06だったか軽いのがありましたが買えるのは三和だけ)の取り付け耳をカットし、配線も短くし、サーボホーンの固定ビスも省略し、受信機はケースを外してスチレンペーパーで箱を作り・・・
ヒンジは絹糸の糸ヒンジ、ホーンは1ミリピアノ線で作ってリンケージは竹ひごにピアノ線を木綿糸で縛って、という事をしてました。
竹ひごが2ミリカーボンロッドに進化したくらいで、やってることは今と大差ないのですけど、20年以上まえからこんな事してます。
この機体素直な飛びだったのですが、Gマークの02ヘリに使っていたエンジンを転用していたため、燃料タンクの空気穴に気づかず満タンで30秒しか回らないほとんど操縦する余裕の無い飛行機でした。
フラットボトム翼、主翼だけフィルム貼りで後はバルサ生地へそのまま塩ビスプレー仕上げというのが定番でした。この機体で240グラムくらいで仕上がってます。
1978年頃くらいです
自作02機 2例
サーボの重量や250ミリニッカドの重さはどうしようもなかったのですが、PeeWee02で防火壁へ吸気溝を作ってやって赤缶で250グラムくらいで仕上げると良く飛ぶという目安ができた頃です。
左の白い機体は簡素な構造ですが245グラムくらいで、ラダー機としてはかなりのスタントができた機体です。一回水平飛行から逆宙返りに入れたら背面でエンジン止まりそのまま背面で草むらに着陸しました。
20年後にCD-ROMモーターで肩翼のスポーツ機を作りましたが、この頃の機体と考え方はほぼ同じです。
右側はラジコン技術に紹介されたデボネアポンコツ号風の機体をまねて作ったものです。
この後に100mahのニッカド(マブチの空中モーターA-1のやつ)とOSのPX−06サーボを使った全備重量170グラムの01機を作りました。
親父のラジコン技術にあったエスケープを使う02クラス機をあこがれて読んでた(漢字あまりよめない年でしたが)頃の名残です。
02カブ号をもう一度作ってみたいと今でもおもってます。このメーカーのもう一つの02機は プッシャー02双ラダーというのが名称だったように思います。
高校2年の頃、1980年頃だと思います。
ヘリコプターたち
自作電動ヘリ
SEA&SKY誌の表紙を飾った市村さんの電動ヘリは人生の節目?くらいにすさまじい衝撃でした。石政からスカイラークとして発売されましたが、当時の私には高価で買えませんでした。
で・・・見よう見まねで電動カーのギヤを流用し、1ミリアルミ板をハンドニブラで切り抜いてハンドドリルで穴開けして作ったフレームがこの機体です。スワッシュは固定ピッチバロンの樹脂製を使いましたが、アルミパーツは金属ノコとヤスリと根性で削って作ってました。(フライスがあったら・・とかいうのは通じません)
JRの普通のヘリ用無線機でジャイロは無し、マブチのRS540を2つ使い、マブチのスーパーセル1200mah8セルを12Vバッテリーにつないでメーター見ながら充電する形式のものでした。当時は今のような高出力のアンプは無く、スカイラーク用の巻き線ワイパーを使ってました。少ししてKOからRX−7という赤いアルミのケースの高出力アンプが出てそちらを使ってました。
この電動ヘリはかろうじて浮くような浮かない様なでしたが、この後にテールをピアノ線駆動する物でなんとか浮く様になり、その後の3号機で普通に浮くようになりビニールテープをぐるぐる巻きにしてウェイトにしたスタビレスヘッドを実験したりしてました。
今のバッテリー(4/5SC1700の8セルとか)を今の充電器で充電してやれば、そこそこ飛ぶような気もしますけど、当時はバッテリーも充電も今のようにはいきませんでした。
高校生の頃、1979年頃でしょうか。スカイラーク出た頃です。あわれ学習机・・・
カルト 40バロン
エンジンヘリは父のお下がりだった三共レイベン(塩谷45BB)で練習をはじめましたが、浮くことは浮いても当時のシーソーヘッドは思うように舵が入りませんでした。
なんとかレイベンが浮くようになって、当時画期的に安価だったカルトバロンを手にした時に、板バネフラッピングヘッドの舵の入りに衝撃を受けました。
とはいえ・・・ 今のマイクロ電動ヘリにも及ばない操縦性でしたけど。
ピアノ線を半田付けの脚、メカプレートは3ミリベニヤ積層に塗装仕上げ。バロンになって45BBからOSの45FSR−Hになりました。マフラーはヒロボーの40用ダイカストマフラーが格好良く、愛用してました。
まだ三共のコマジャイロ、風が吹くとラダーはほとんど効かず、自分を中心に周囲を一周回すことが練習課題でした。飛ばせる飛ばせないどころではなくとにかくテールは効かなかった頃です。
中学2年の時に文化祭で浮かせた事もあります。12Vバッテリーを持って行く事ができず、バギーの時もゼンマイ式のスターター愛用でした。
高校の頃に可変ピッチ機に組み直し、40クラスのジェットレンジャーのボディに載せて飛ばしてました。父の機体の調整やテストをする事も多かったのですが、この頃に飛行機も在る程度飛ばせるようになり、広い場所では飛行機を飛ばす機会が増えてきました。
カルト 30バロンMX
20クラスのヘリはヒロボーのミニスター025をせっせと飛ばし、初期型フラッピングヘッドのシャトルへ移行していました。この頃に知人を通じてブラックホビーさんへ行かせてもらうようになりいろいろ教えてもらいました。シャトルのXXが出る前頃に30バロンの新型が出るという事で可愛いキャビンに一目惚れで作った機体です。
この機体だけエンジンに塩谷の30を使いました。無線機は三和のスタックマーク2の6chヘリ用でした。60バロンSから双葉のPCM(8HPでしたけど)を使うようになり上空も危なげなくなり当時の静演技もせっせと練習していたころで、この機体もパワフルでは無かったですけど軽快に飛んでくれました。
写真は言わないとわかりませんけど・・・ 北海道の友人をアルトに乗って訪ねたときに30バロンを積んで行って、北見市郊外のホクレン農場で飛ばさせてもらったのを知人に撮影してもらったものです。ブビビビビという塩谷らしい?排気音でしたが可愛い機体でした。
1988年頃です。バロンウィスパーが出るちょっと前くらいでしょうか。
初代の双葉PCM1024のコンピューター送信機が出るのはこの後くらいです。
新妻さんのピッツ
赤いフライトスーツが新妻パイロット
日本アエロバチック倶楽部の新妻さんが飛ばしていたピッツです。今はスホーイだエクストラだと日本でアクロ機を見るのは珍しく無いですけど、以前は広島に住んでいる私には米軍海兵隊岩国基地のフレンドシップデーで展示飛行をしてくれる新妻さんのピッツが唯一のアクロバット機でした。
新妻さんは常におだやかで繊細な手をしておられました。この機体が好きで好きで、ピッツを見るだけのために岩国通いをしていたようなものでした。
実機はこんなに小さな機体です。
他のパイロットの訓練中に桶川の事故で機体は中破し失われたようですけど、新妻さんは私にとって最高のパイロットです。
こういう画像がいろいろと出てきました。写真撮るまえに燃えるゴミになった機体も多いのですけどかつてはこんな事をしていました。
娘が生まれたのを機会に自分が生まれた頃の写真を母に見せてもらったのですが、あどけない幼子の後のこたつの上にはリード式8ch送信機があったり、おしゃぶりをくわえた幼子がさわっているのはオービットの10chだったり、ベビーベッドの上には天上から吊られたトーラスにセスナにという環境でした。
乳児が寝てる横でバルサにペーパーがげをして室内でラッカー塗装に絹貼りに・・・とんでもない時代でしたが、今やったら私が追い出されますね。
良き教官であり、ライバルであり飛行仲間だった亡き父に感謝です。